ヴィパッサナー瞑想体験合宿を経験して浮かんだ、ある1つの疑念 | LIVE YOUR LIFE

 

ヴィパッサナー瞑想体験合宿を経験して浮かんだ、ある1つの疑念

 

そういえば先日、『ヴィパッサナー瞑想』なるものを体験してきました。

高校からの友人に勧められ完全に興味本位で参加してきたわけですが、これが想像をはるかに上回る凄まじさだったので、その衝撃から未だに助け出せていない感は否めません。

ざっくりとこの瞑想体験についてFacebookでお話ししたので、どんなものなのか気になる方は読んでいただければと思います。

https://www.facebook.com/rikudesign/posts/289935058091220

 

さて、この10日間にもわたる瞑想合宿を体験してみて、得たものというのは本当に計り知れないほど貴重なものでした。

計100時間以上は瞑想してきたということで、逆に得るものがない方がおかしいのかもしれませんが…(笑)

 

自分の負の感情との向き合い方、そしてその消し去り方。

平静な心を保ち続け、豊かな人生を歩んでいくための方法。

感覚を研ぎ澄まし、自分を極限まで客観視することの大切さ。

 

とまあ本当に言語化しても意味がわからないようなことを体験してきたわけですが、確かに人生における貴重な体験をしてきたと胸を張って言うことができます。

しかしそれと同時に、瞑想合宿を終えてみて自身の心に感じたのは、そのような恍惚感や達成感だけではなかったようです。

 

ある1つの疑念が、依然として心の内に残っているので、自分なりに文字に起こしてみようと思います。

これからヴィパッサナー瞑想を体験しようという方だけでなく、すでに体験した方にも読んでいただければ嬉しいです。

 

『苦悩を取り去る』ということ

 

 

このヴィパッサナー瞑想というのは、自身の感覚をとことん『観察』し、そして心と身体に起こっているそれらの感覚は『無常であること』、つまりは移り変わるものであるということを知るということ。

ざっくりと言えばこんな感じでしょうか、要は『自分とありのままに向き合う』ということと言っても良いでしょう。

 

そんな瞑想法を実践することで、自らの内にあるありとあらゆる『苦悩』を取り去り、究極的に平静な心を手に入れる(解脱に至る)というのが目的というかこの瞑想法の目指しているところ。

 

この理論に関しては、実際に瞑想を体験したことによってかなり腑に落ちたところはあります。

最初は『何言ってんだか意味わからない』『怪しさが半端じゃない』『早く帰りたい』といったことばかりが頭には浮かんだものですが、まさに苦悩を取り去るということを『体感』するとは思いもしませんでしたね。

 

身体の感覚に意識を集中することができるようになり、平静な心で観察できるようになる。

そして生まれ来る苦悩はいずれ消え去っていくものだということを、『この身をもって』知ることとなる。

そうしたら不思議なことに、過去の過ちだとか苦悩というものが浄化されていく感覚も味わうことになるんですね。

大学時代だけでもかなりの過ちを犯してきたわけですが、それらの苦悩がどんどん浄化されていきました。

 

まあ言葉で言ってもとことん意味がわからない話なのですが、体感としては『感情の捉え方が変わった』といったところです。

『自身に起こる苦悩の感覚というのは、過去あなたが積み重ねてきた苦悩が表に出て来ているからだ』的なニュアンスのことを教わりましたが、体験を通して『確かに、なるほどな』と納得している自分にはなかなか驚きました。

 

そういった意味で、かなーりスッキリした部分といいますか、まさに『心が浄化されている』ということを体感したわけですが、このことに対して完全に納得しきっていたわけでもありませんでした。

というのも、この瞑想法の最終ゴールである『解脱』というのは、全ての苦悩から解放され無我の境地に至る(的な趣旨)というものなのですが、『これって本当に幸せなのか?』と。

 

全ての苦悩を取り去ればそれはもちろん心が豊かになるのは間違いないですが、『苦悩を取り去れば幸せになれるのか?』ということです。

 

本当に苦悩を取り去れば幸せになれるのか?

 

 

これはまた変な堂々巡りに入り込んでしまったのかもしれませんが、この疑念は僕の中ではかなり大きなものでした。

この瞑想法は、語弊を恐れず言うとすれば宗教のように盲目的な信仰に頼るのではなく、自らの努力・行動・体験によって自分自身を救済するというのが1つの建前ではあります。

 

ただ、『苦悩を取り去るという目的のために、自分はこれから努力し続けられるのか?』ということを感じずにはいられない自分がいました。

それはもちろん苦悩を取り去りたいです、嫌な思い出も嫌な感情も、全部が全部なくなったらどれだけ楽なことか。

 

でもそれだけじゃないと思ったりもするんです。

僕はこれまでの苦悩に対して嫌味を抱いているだけでなく、ある種の『愛着』のようなものも抱いています。

むしろ『あそこで一回落ちたから、こうして這い上がってくることができた』としみじみと感じています。

 

でももしそれらの苦悩がなかったら?これから何も沈むようなことがなかったら?と考えると、それはそれで気持ち悪かったりもするんです。

愛と慈しみの心を持って穏やかに生きる、それってすごく立派だし高尚だし、とても徳のある人生を送るということ。

でもなんだかそれじゃ面白くないなあと、漠然とではありますが感じる部分が合宿中から悶々としていたことは事実です。

 

幸せとは何か?みたいな議論をしても意味はないですが、僕にとっての幸せは少なくとも『全ての苦悩から解放される』というようなことではなかったのかもしれません。

僕の思う『人間らしさ』というある種の信念に近いものと、この瞑想法は相性が良くないのかもしれないなどと感じたりもしたんですね。

 

『人間らしさ』とは何か?

 

 

じゃあそもそも人間らしさってなんぞや?というところなわけですが、これは僕の中で腑に落とせている部分が一応はあります。

正しくは『人間くさい』と言った方がいいのかもしれません。

 

そうです、人間ってくさいんですよ。

プラスの感情にしてもマイナスの感情にしても、そして感情だけでなくあらゆる言動にしても、いろんな匂いを放っていると思うんです。

泣いたり怒ったり、笑ったり楽しんだり、もうそれはそれは忙しくて仕方ないんです。

でもそれってすごく人間らしいじゃないですか、なんか愛くるしいじゃないですか。

 

もちろん悪いところだってたくさんあります、悪いこともたくさんしてしまうかもしれません。

でもその1つ1つが人間らしさであり、人間の放っている匂いだと思うんですね。

 

嫉妬にしても嫌悪感にしても苛立ちにしても執着してしまうのにしても。

それはもちろん犯罪を犯したり人を傷つけたり、良いことばかりではないかもしれませんが、全部が全部必要ないものというわけではなく、そんな負の部分も僕たち人間を人間らしく保っている大切な要素なんですよ。

むしろ不安だから、怖いから、嫌だから、新たな一歩を踏み出すことができると思うんです。

 

だから、それら負の部分を全部切り落として、ファブリーズで人間くさい匂いを除去して、無味無臭な人になってしまうのはいかがなものかなあとか思ってしまったんですね。

むしろもっと泣いたり怒ったりしたいですし、その分全力で笑っていたいじゃないですか。

 

心や身体の感覚を観察したり、自分自身を客観視することはもちろん大切です。

でもそれって一人でできちゃうし、一人で苦悩から解き放たれちゃうし、一人で幸せになれちゃうんです。

 

それが本当の幸せなのか?と考えた時に、『いやいやもっと人間らしく、たまには過ちを犯してもいいんじゃない?』『誰かに迷惑かけて迷惑かけられて、時には支えられてもいいんじゃない?』なんて思ったりもしたわけです。

 

この瞑想法はあくまで『生きる技』であるということ

 

 

とまあこんなことばかりを考えていたわけですが、何よりも忘れてしまってはいけないのが、この瞑想法はあくまで『生きる技』であり『手段』であるということです。

別に瞑想をすることが目的なのではなく、そして誰もが『解脱』を目指してこの瞑想法を実践しなければいけないということでもないわけです。

 

それはもちろん、解脱を目指してこの瞑想法を実践している人も多いかもしれません。

ただ僕自身がこの瞑想合宿を体験してみて、別に『僕は解脱への道を歩み始めたんだ…!』なんてことは感じなかったということです。

そうではなくて『これは良い技を教わった』『これは良い価値観を知ることができた』程度にしか受け取ることができなかったんですね、まだまだ僕が青いからかもしれませんが。

 

だからここでお話ししているのも、あくまで『僕』という人間がヴィパッサナー瞑想を通して感じたことであり、むしろこの違和感や疑念を観察してみて感じたことでもあります。

もしこの瞑想法を体験した人、実践している人がいるのであれば、それこそ盲目的にならずに『自分のゴールはどこなのか?』『この違和感は何なのか?』というところも観察してみても良いのではないでしょうか。

誰でもできる瞑想法だからこそ、そのゴールも人それぞれで良いんじゃないかなというところです。

 

何より、本気で解脱したいなんてこんな若干22歳の若造が考えられるわけもない、まだまだ苦悩ウェルカムです本当に。

 

山あり谷ありな人生を、どう歩んでいくか

 

 

人生には山があって谷があり、平坦な山なんてないと僕は思っています。

 

そうであるからこそ、その山をどのように登るのか、どのように下るのか。

そしてその谷にどのように落ちるのか、どのように上がっていくのか。

このことに目を瞑って、ただ足を止めて想いにふけっていてはいけないんです。

 

時には気持ちが良すぎるほど順調に登山できることもありますし、時には信じられないくらいのスピードで谷底へ突き落とされることもあります。

でもここで何よりも大切なのは、『歩みを止めてはいけない』ということ。

時には後ろを振り返りながらも、前へ進み続けなければいけないということです。

 

今回僕がヴィパッサナー瞑想を通して学んだのは、『山頂への登り方』ではありません。

そして『山を平坦にする方法』でもなく『山を登り谷へ落ちることをやめる方法』でもありません。

 

いうなれば、『山を越え谷を越え、歩みを止めない歩き方』といったところです。

良い価値観を学ぶことができたので、人間らしい部分を忘れることなく、賢くこれからの人生に活かしていければなと思います。

 

最後に

 

書いていて『ああ否定的な表現も多かったかなあ』なんて感じたりもしていますが、あくまで僕なりの解釈の一部を述べてみただけなので、もしかしたら気分を害した方もいるかもしれません。

ただ『瞑想』とは『目を瞑って想う』というように書きますが、それこそこの瞑想法に対して盲目的になってはいけないということだと思うんですね。

目を瞑って想いながらも盲目的になってはいけない、このある種の矛盾点も瞑想の面白いところです。

 

また正直なところ、別にこの瞑想法を学んだら人生が変わるわけでもないですし、現状が一気に好転するというわけでもありません。

ただそれでも、かなり貴重な経験をさせてもらったことは確かですし、人生においてかけがえのない価値観を学ぶことができたのは確かです。

後は、それをいかに自分の人生軸と擦り合わせていけるか、そしていかに賢く利用していけるか

仏は人間じゃないのかもしれませんが、『人間らしい仏』みたいな感じになれれば面白いなあ。

 


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公開日:2017/02/22

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